<中編>


「と――」
目覚めた銀時が最初に見たのは白い天井。次に己を見詰める新八と神楽だった。不安と安堵の
混じった顔。目の下には隈ができており、やや窶れた印象も受ける。
病院のベッドで寝かされているのだと理解して、また張り切り過ぎてしまったかと記憶を辿りつつ
起き上がった。
「銀ちゃん!」
「大丈夫ですか?」
「ああ。……あれ?」
問題ないと二人の頭へ交互に手を置いてはたと動きを止める。ここにいる理由に心当たりがない
のだ。大切な存在を護りたいと強く願った記憶はある。しかしそれが誰なのか、何から護りたかった
のか、それどころか、そもそも現実であったのかすらあやふや。ここが自宅であったなら、ただの
夢で片付けてしまっていただろう。

まさに夢。

酷く恐ろしいような苦しいような悲しいような思いをほんの直前まで味わっていた感覚。なのに
その原因は覚えていない。感情だけを置き去りに、物語は忘却の彼方だ。
「何で、ここに……?」
起きぬけの怠さのほかに体の違和感はない。入院の理由を問えば、新八から端的な答えが返って
くる。
「銀さん、猫になってたんですよ」
「……は?」
「覚えてないアルか?」
「ああ」
「実はですね――」

新八の説明によるとこうだ。
一週間前、とある猫型天人(地球人と同じくらいの大きさの二足歩行できる猫)が観光目的で
江戸にやって来た。彼は匂いに釣られて屋台のおでん屋に着いたはいいが、猫舌ですぐには食べ
られない。それに腹を立て、店主に猫化する薬を噴射したという。
この薬、そもそもは優秀な遺伝子を持つ他の種族と交わるために開発されたもの。
かくしておでん屋の店主は猫型天人に最も近い地球上の生物――つまり猫――に姿を変えて
しまったのだ。
更にこの天人、一人を犠牲にしただけでは飽き足らず、そこからすれ違い様に次々と江戸の住民を
猫化させていったという。迷惑この上ない天人は、五、六人を五、六匹にしたところで巡回中の
警察官に取り押さえられる。幸い、変身を解く薬も所持していたため、着物付近にいる猫に薬を
振り掛け、着物の持ち主に戻してめでたしめでたし。

と、思いきや――
「屋台の近くに住んでた長谷川さんが、何も知らずに銀さん達の着物を回収しちゃったんですよ」
「へえ……」
青天の霹靂に理解が追い付かない。ちょっと待ってくれと小休止を申し出れば、春の初めの冷たい
風が白いカーテンをシャッと揺らし、了承の返事を掻き消した。

おでんの屋台。

新八の言葉を基に記憶の糸を手繰り寄せてみる。確かにこの時季行きつけのおでん屋が河原に
あって、その近くに長谷川さんが「家」を建てていた。自分はおでん屋に向かう途中で被害に
遭ったのか……
「あ……」
再び吹き込んだ風が頭の中まで通り過ぎたような錯覚。続いて蘇るあの日の会話。

『こんな寒い日はおでんで一杯やるかな』
『河原の屋台に行くつもりじゃねぇだろーな』
『絶対に来るなよ?』
『テメーの指図は受けねぇ』

偶然が必然になるはずだったあの日。こちらの意図を悟られやしないかと内心怯えていた。
はっきりと思い出せたのは、もう少しで屋台が見えてくるというところまで。苛ついた様子の
天人とすれ違った覚えもある。しかし、猫でいたという日々の記憶はどう頑張っても殆ど回復
しなかった。
「銀ちゃん……」
「大丈夫ですか?」
「ああ、思い出した。確かにあの日はおでんの気分だったし、態度の悪い猫もいた」
「それでですね――」

ここからは新八自身が体験したこと。
銀時が飲みに出たまま帰らなかった翌朝、長谷川が近所で拾ったと銀時の服を届けてくれたのだ。
上衣だけならまだしも下着やブーツまで捨ててあったと聞き、単なる飲み歩きではなかったのだと
悟る。しかし、 神楽と二人で捜索するも手掛かりすら見付からず、定春の鼻をもってしても発見
できない。五日が過ぎ、途方に暮れていた彼らの前に一人の依頼人が現れた。

「近藤さんから、猫になった土方さんを探してほしいと頼まれたんです」
「…………」
その名を耳にするだけで落ち着かなくなる。猫の頃の記憶は「殆ど」ない。ということはつまり、
少しはあるのだ。
どうにか平静を装えていたらしく、新八の話は続いていた。長谷川は万事屋を訪れた足で真選組の
屯所にも行っていたとのこと。土方の所持品を届けるために。

「僕ら、その時初めて事件のことを知ったんですけど……」
新八の声が一段低くなり、近藤から知らされたという恐ろしい事実を語り始めた。
人間だった頃の記憶は猫となった瞬間にその大部分を喪失し、およそ百七十時間をかけて残りも
徐々に消えていく。記憶が完全に消えればもう元の姿には戻れないという。
「マジでか……」
折しも町では去勢目的に野良猫の捕獲が進められていて、町民全面協力のもと猫探しが行われた。
定春が匂いを辿り行き着いたのは長谷川の段ボールハウス。しかし事情を知らない長谷川は、
新八と神楽も去勢作戦に関わっていると勘違いして、二匹を隠匿していてしまったのだ。
翌日、着物の発見者である長谷川に改めて当時の状況を聞こうということになり、無事に見付け
られたわけだが、

「猫の銀ちゃんが神社にいたのも、定春はちゃんと見付けてたのにごめんネ」
思い返して瞳を潤ませる神楽。まさか姿形が変わっていたなどとは予想もつくまい。お前は悪く
ないと銀時は神楽の肩をぽんぽんと叩いた。
「俺は今、ここにいるじゃねーか」
「うん」
猫のままだったかもしれないというのは肝を冷やしたものの、無事に戻れたのだから問題ない。
おでんが食いたくなったと呟いて銀時はベッドへ横になった。
カーテンの向こうは橙色。もうじき面会時間が終わってしまう。
「今日は念のため入院ですけど、明日には帰れますから」
「銀ちゃん、一人で寂しくないアルか?」
「大丈夫だって。……お前と定春は新八の家に行けよ」
いつ帰るとも知れない己を待ち、碌に寝ていなかったのだろう。今夜はゆっくり休んでほしいと
二人を見送る銀時であった。


春とはいえ深夜ともなればまだ肌寒く、川の音がそれに輪を掛けている。そんな春の夜、密かに
病院を抜け出した銀時は、いつもの出で立ちで河原を歩いていた。寒いくらいが丁度いい。心臓は
高速で全身の血液を巡らせているのだから。
脳裏に浮かぶのは一週間前の会話。

『まだまだ冷えるなー』
『なら何で半袖なんだよ』
『こんな寒い日はおでんで一杯やるかな』
『無視か!』
『えっ何お前、銀さんに構ってほしかった?』
『誰が!』
『で、こんな日はおでんの気分にならねぇ、土方くん?』
『チッ……まあそうだな』
『つーわけで今夜はおでんにすっから、真似すんなよ?』
『あ? 生憎だが俺は昨日から今夜はおでんと決めていた。お前が真似すんな』
『おでん、つっても俺は屋台の方だから。お前はコンビニだろ?』
『ンなわけあるか! つーかお前まさか、河原の屋台に行くつもりじゃねぇだろーな』
『え……お前もそこ知ってんの? じゃあ今夜は絶対に来るなよ?』
『テメーの指図は受けねぇ』
『ああそうですか……』

ああ言えば必ず来ると踏んでいた。タイミング悪く妙な事件に巻き込まれてしまったけれど、
おかげで相手の気持ちを推し量ることができた。目付きの悪い黒猫とは友好な関係を築けていた。
具体的にいつ何をしたかは覚えていないけれど、仲良くやっていたのは確かだ。猫で上手くいった
のだから人間でも絶対に……きっと……多分……上手くいくかもしれない。
とはいえ今夜は土方も入院中のはず。ちょっと来てみただけだから、いなくてもガッカリしない
からと己に言い聞かせ、一歩、また一歩と屋台との距離を詰めていった。


「…………」
おでんの「お」の字の暖簾の下、覗く黒い背中に銀時の足は硬直した。
いやいやそんなわけないって。似たような着物着てるヤツなんていくらでもいるだろ。騙され
ねーよ。だってアイツは入院中だもん。こんな所にいるはずないもん。だから……
「遅ェよ」
「!?」
右手で「で」の字をひょいと上げ、見えたのは散々打ち消した顔そのもので、「お待たせ」なんて
如何にもな台詞に自ら胸を高鳴らせる銀時。「ん」の字の下に辛うじて腰を下ろした。
「全然来ねェから、一人で一本空けちまったじゃねーか」
「あ、ああ悪かっ……」
店主から猪口を受け取って土方は手元の徳利から酒を注ぎ、銀時の方へ滑らせる。空いてないでは
ないかと言葉を止めた銀時には構わず、四角く仕切られた鍋を覗き込む土方。
「竹輪とはんぺんと大根。あとこれもう一本」
「止めときなって。これ以上は体に毒だよ」
銀さんからも言ってやってと店主に促され隣を見れば、土方は左手で空のマヨネーズボトルを
振っていた。
「一本空けたってソレぇぇぇぇ? つーか俺が早く来てもソレはお前しか食わないからね!
何いつもは二人で空けてるみたいに言ってんの! そもそも約束なんてしてねぇし!!」
「……ちゃんと口聞けるじゃねーか」
「へ?」
「やけに大人しいから話し方忘れちまったかと思った」
「あ?」
ンなわけねーだろと銀時は「で」の下に移動して猪口を空ける。カウンターにとんと置けば
黙って酒が注がれた。
「もしかして土方くんは口の聞き方を忘れてたのかな?」
「テメーと一緒にすんな」
「いやいや俺はね……」
これまで同様喧嘩腰のやりとり。けれど二人揃って事件に巻き込まれていたのだと唐突に実感した。
土方と、万事屋と、会うのは一週間ぶりのはずなのに流れる空気が何処か穏やかで、しかもそれに
違和感を覚えない。あの猫は確かにコイツだったのだと確信してしまった。

「親父、いくらだ?」
「毎度あり」
二人分より少し余計に金を出して土方は暖簾の「お」を上げる。段ボールハウスの住人におでんを
差し入れてやってくれと。
「ごちそうさまー」
「誰が奢ると言った」
一時的に立て替えただけだと右手を出した土方に、銀時は財布を持っていないと宣言した。
「は?」
「これでも銀さん入院患者だからね」
「……俺も同じなんだが?」
「そうなんだー。じゃあ早くベッドに戻んないとね」
「おい!」
言いながらも銀時の足は病院から遠ざかっていて、土方もそれ自体を咎めようとはしない。煌めく
ネオンに向かい、二人はゆったりとした歩調で進んでいく。事件のあらましなどを語らいながら。
「この一週間、何処にいたって?」
「屯所にいたらしい。他にも猫がいるからな」
「ああ、サトーくんがよく世話してたってやつね」
「伊東だ」
「そうそう、イトーくんね。でもそんな近くにいて見付けらんねぇって、さすがは真選組ですねー」
「チッ……総悟が隠してたんだとよ」
沖田は土方失踪の翌朝から、屯所の庭に黒猫が一匹増えたことに気付いていた。しかし一週間以内
なら元に戻れると聞き、ぎりぎりまで土方猫で遊んでやろうと他には黙っていたのだ。
「マヨネーズで釣って芸をさせ、それを録画して楽しんでやがった」
「沖田くんらしいね」
「だが五日目に猫が帰って来なくなり近藤さんに泣き付いたそうだ」
「そういうことか」
「お前はどうしてたんだ?」
「神社で他の野良と一緒だったっぽい」
「お前らしいな」
「そっちこそ」
春は名のみの冷たい風に会話が止まり、土方は着物の上から自身の腕を摩る。愛用の羽織は猫化の
どさくさに紛れて失くなった。
否、在りかは分かっていて取り返すつもりもないからあげたも同然か。猫二匹の布団に使われた
羽織など手放しても惜しくはない。どうせじきに羽織どころか着物も必要ないほど温まるのだから。

(14.07.15)


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