今年の東京は三月十九日


冬の名残を色濃く感じる冷たい雨の降る日。卒業式が済み、在校生のみが登校している校舎は独特の静けさと開放感がある。そのような中、この高校の国語教諭、坂田銀八は三年Z組にいた。誰もいない教室で窓側の机に腰掛け、煙草ではなく棒付きキャンディーを咥える。雨に濡れた校庭を見下ろせば溜め息が出た。
この学校に想い人がいた。
正確には今月末まで彼の人は在籍しているから、想い人が「いる」。あちらも少なからず自分のことをと自惚れではなく確信できたのはもう、半年以上も前のこと。けれどもそれで付き合えると手放しで喜べる間柄ではない。
ゆえに、受験生が忙しくなる時期だからと自身に弁明をして、告白を先延ばしにしてきた。

それでも、卒業式までにはと覚悟を決めたはずだったのに。

四月になれば本当に会う機会がなくなる。その前に何とかしなければと自ら定めた期日。だがいざ過ぎてしまえばこれまでの確信も単なる自惚れであったのではと揺らいでしまい、益々行動しにくくなっていた。
「あー……」
がしがしと頭を掻きつつ立ち上がり、スリッパの踵を引き摺りながら一番前の中央、教卓の向かいの机に寄り掛かる。真っ直ぐ前を見詰め、教壇に立つ姿を思い描いた。
外見を飾り立てることには無頓着のようでいて、ピタリと分けられたV字の前髪。手櫛であの状態になるのだと知った時には驚いたものだ。
弁当には尋常でない量のマヨネーズ。そんなに好きなのかと尋ねれば、マヨネーズの魅力を懇々と語られた。
歩く時には片手をポケットに入れる癖があり、ここへ入ったばかりの頃、先輩から横柄に見えるだ何だと窘められていた。だが今でも無意識に入れてしまい、気付くと慌てて一人パントマイムを演じているのも知っている。これは違うから。ポケットの中身に用があっただけだから、と。もう注意する人もいないのに。
「好きですよー」
黒板に向かい告げた己の気持ち。一人だけの空間に小さな声が霧散していく。心象相手になら既に何度も愛を伝えられている。
いっそのこと、メールで思いを伝えてしまおうか。
取り出した携帯電話はしかし、何もせずに再び仕舞われた。返事を待つのに耐え切れそうもないし、その前に顔を合わせる可能性もゼロではないのだから。
「あ〜〜〜……好きなんだよー」
教卓に両手と右頬を乗せて伏せ、雨に濡れる窓を瞳に映す。迎え入れる生徒が来ずとも、カーテンは毎朝必ず開けられていた。
しとしとと降る雨は周囲の音を奪うのみで自らの音は殆ど発しない。無言で感情を抱え続ける己には似合いの天候で、告白するならやはり晴れの日になどと脳裏を掠めたことに自嘲した。
雨だから、湿度が高いから、天然パーマの髪型が決まらないからと、意気地のない自分に言い訳をくれる恵みの雨。けれど晴れていたって言うべきことが言えないことは分かりきっていたから。
カタカタと教卓を揺らしてみても勇気は出てこない。こんなことをしている間にも、刻一刻と別れの時は近付いている。とにかく会いに行こう!
バンと天板を叩いて顔を上げ、頬を叩いて気合いを入れた。
「ここにいたのか」
「ぎゃあ!」
突然ガラッと入口が開き、吃驚した坂田は生徒用の机を巻き込んで盛大に転んでしまう。ドアを開けたのは他でもない、恋焦がれる土方十四郎その人であったから。
その様子に土方は右側の口角を上げ、後ろ手で静かに扉を閉めた。
ダークグレーのスーツを纏い、すたすたとこちらへ近寄る土方の左手はポケットの内。その手がすっと差し出されても、坂田はそれと土方の顔とを交互に見るだけで床の上から動けなかった。
「何してるんですか、坂田先生?」
「えっと……あ、あれ?」
状況は飛んで火に入る夏の虫。しかし咄嗟のことに頭が働かず、しどろもどろ。相手が見透かしたような笑みを浮かべているからなおのこと。

土方は一年以上も前から坂田の思いを察知していた。というより、本人が覚えていないだけで既に告白を受けている――
昨年の冬のこと。帰宅が遅くなった土方は、酔って上機嫌の坂田に偶然出会した。
「こぉんなところで会っちゃうなんて、運命感じちゃうなぁ」
「どーも」
高校の最寄駅で会うことなど珍しくも何ともないが酔っ払いには逆らわず、べたべたと腕を絡めてくるのも好きにさせておく。役得だと口元を綻ばせながら。
「好き」
「えっ?」
土方は己の耳を疑った。自分が惚れた同性の教師に好かれるという奇跡が起こるなんて、微塵も思っていなかったから。
「だーい好き。愛してる」
「お、俺も……」
「本当!?わーい!」
両手を挙げて喜び、抱き着く坂田の背に腕を回そうとしたところ、
「ここにいたか金八ぃ!」
同僚教師の坂本が現れた。どうやら坂田は彼と飲んでいたようだ。いつまで経っても名前を覚えない馬鹿だけれど、それなりに気は合うのだと聞いたことがある。
「すまなかったのう、お兄さん……あれ?」
「どうも」
泥酔して通りすがりの人間に絡んでいるとばかり思っていた坂本は、見知った顔に僅かばかり面食らった。
「こんな時間まで居残りしちゅうがか?」
「まあ色々やることが重なりまして……」
「お疲れさん。じゃあソイツはこっちで引き受けるんで」
坂本が親指でタクシー乗り場を指す。気付けば坂田は土方を抱き締める形で眠っていた。
「よろしくお願いします」
坂田の家も知らない自分を歯痒く思いつつも、それを表には出さず、土方は優しく坂田の腕を解いて飲み友達へ託す。
翌朝から楽しいお付き合いが始まるのかと心を弾ませていた土方であったが、いつも通りの坂田に会い、酷く落胆した。しかしながら、坂田の自分への思いは本物だと言動の端々から感じとれ、すぐに元気を取り戻すのであった――

そして今、用もないはずの教室に坂田はいた。土方の思い出が詰まった三年Z組に。
この機会を逃してなるものかと一歩一歩距離を詰めていく。
「あ、部屋を間違えて……」
「坂田先生は今年、三年生の授業を持ってないじゃないですか」
「ここ三年の教室?どうりで誰もいないはずだ。いやー参った参った!」
早口で捲し立てる坂田を窓際に追い詰め抱き締めた。あの日、駅で受けた抱擁のごとく熱い思いを乗せて。
「好きです」
「ひじか――」
「卒業式が終わったら、言おうと決めてました」
「……すごいね。そうやって決めて、すぐ言えちゃうんだ」
坂田は土方の脇の下から腕を伸ばし、背広の両肩をきゅっと握った。
「俺も好きです。……土方先生」
土方は坂田と同期の社会科教師。今年はここ、三年Z組の担任を務めており、四月から別の高校へ転任することが決まっている。
幸せを噛み締め抱き合う教師達の頭上に、終礼のチャイムが響いた。次のコマは二人とも受け持ちの授業がある。
休み時間にまた、なんて生徒の恋愛のようだとはにかみながら二人の交際は始まった。校庭のソメイヨシノは開花したばかり。

(16.03.17)


タイトルは開花予想日です。この時季は学園物が書きたくなりますね。
今回は3Zに見せかけたW教師物でした^^ 上手く見せかけられていました?途中で違和感に気付いちゃいましたかね?
ここまでお読みくださりありがとうございました。



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