後編


 『マヨ八先生、それ何飲んでんの?ちょっとちょーだい』
 『あ、おいっ』
 『おぼろろろろろ……』
 『……大丈夫か、坂田』
 『何この酸っぱ苦い黒いの……毒?』
 『コーヒーだよ、コーヒー』
 『はぁ!?コーヒーってのはもっと薄茶色で甘くて……』
 『それ、コーヒー牛乳だろ。今飲んだやつに牛乳と砂糖をたくさん入れるとそうなるんだよ』
 『あんなに美味しいコーヒー牛乳の元がこんな毒物だったなんて……』
 『まっ、子どもはコーヒー牛乳で充分だな』
 『ムッ!俺が大人になったらなァ……もっと酸っぱ苦いやつ一気飲みしてやるからな!』
 『ハハッ、分かった分かった……』
 『マジだからな!逃げんじゃねーぞ!』


十年前の職員室でのやり取りをふと思い出す。
こんなことでもなければ思い出さなかった日常のほんの一コマ。
今、教育実習生として同じ職員室にいる坂田の傍らにはストローの刺さったコーヒー牛乳のパック。
ブラックコーヒーは飲めるようになったのだろうか……
ああいう物を持って来てるということは、俺のように好んでブラックを飲むことはなさそうだ。
流石に吐き出しはしないだろうが。

コーヒー牛乳といえば……


 『先生って身長いくつ?』
 『一七七』
 『あと二十五センチもあんのかチクショー……。よしっ、今日から飲み物は全部いちご牛乳か
 コーヒー牛乳にしよう!』
 『普通の牛乳じゃねェのか?』
 『ただの牛乳は甘くないからあんま好きじゃないんだよね……』
 『甘いもんの摂り過ぎは体に悪いぞ』
 『いや、オレは糖分を信じてる。アイツに悪い所なんかない!』
 『はいはい』


……ってこともあったな。まあ、身長に関しては目標達成ってとこか?
さて、昔を懐かしんでないで俺も自分の仕事をするか。

俺が坂田から視線を外した直後、坂田はこちらを見て口角を上げたらしいのだが、その時の俺は
全く気付いていなかった。


*  *  *  *  *


およそ一ヶ月後。

「短い間でしたがお世話になりました」

坂田はそつなく実習を終えた。受け持ったクラスの生徒から折り紙の花束と色紙をもらい
「帰りの会」では若干涙ぐんでいたというから、本当に良い教師になれそうだとなかなかに
高評価を得ているようだ。

だが俺はというと、些か拍子抜けしていた。

実習前、あんなにも意味深に迫っておいて何も……いや、校内で何かされても困るのだが、
碌に話し掛けもしないとは……。まあ、それだけ真剣に実習に臨んでいたのだろうから何も
問題はなくて……そもそも俺は坂田とどうこうなろうとは思っていないのだから、このまま
何事もなく過ぎていってくれた方がいいわけで……

「……方先生、土方先生!」
「!?おおああ……な、何だ?」

全員の前で挨拶していた坂田がいつの間にかすぐ近くに来ていて心臓が跳ね上がる。
……ビックリしたからだぞ?未だに脈が早いのもビックリしたからであって、坂田の笑顔が
至近距離にあるからでは……

「お世話になりました」
「あ、ああ……頑張れよ」
「はい。それじゃあ」
「ああ」

職員室の入口でもう一度「お世話になりました」と頭を下げ、坂田は帰っていった。


 『じゃーなー、マヨ八ィ〜』
 『最後くらいちゃんと呼べ坂田ァ!』
 『ハハハハハ……』


そういやアイツは卒業式の日も笑ってたっけ……。
別れを惜しまないのは、輝かしい未来を思い描けている証拠。いいことじゃねーか……

その日はいつもより仕事が捗らず、終電ギリギリで帰宅することになった。


*  *  *  *  *


「え……」
「おっそ!いつまで働いてんだよ!も〜、マジで帰って来ないかと思ったァ……」

日付が変わってから辿り着いた自宅マンション。部屋の前には何時間か前に見送ったそのままの
格好の坂田が座り込んでいた。
俺を見るなり立ち上がった坂田は、よく回る口で不満を並べ立てる。

「ホントさァ……よりによって何で今日?今までそんなに残業してなかったのに……。
大好きな坂田くんと会えなくなるってヤケ酒でもしてきたんならまだ分かるよ?でもめっちゃ
シラフだし!弁当買って来てるし!つーことは今までメシも食わずに仕事してたってことだろ?
ヤベーよ……俺、教師やめたくなってきた……」

ツッコミ所は多々ある。お前はまだ教師じゃないだろとか、どんな仕事にだって残業はあるとか、
約束もしていないのに遅いなどと言われる筋合いはないとか……だが、一番ツッコむべき所は、

「何が『大好きな坂田くん』だ」

自信過剰も甚だしいこの言葉。

「あれっ、違うの?」
「違うに決まってんだろ」

とんだ勘違い野郎だ……。つーか敬語はどうした?実習中は猫かぶっていやがったな?
ったく、成長したと喜んだ親心(?)を返しやがれ!
残業くらいで教師を諦めようとしたことも含めて説教が必要だと思ったが、夜中にこれ以上
外で話していては近所迷惑になる。視線で入れと促して俺は部屋の鍵を開けた。


*  *  *  *  *


「ここのこと、誰に聞いた?」

靴を脱ぎながら坂田に尋ねる。このマンションには三年前から住んでいて、十年前に卒業した
坂田が知っているはずはない。すると坂田はてらいもなく言った。

「一ヶ月近く同じ職場にいたんだから住所くらい簡単に……」
「おい……」
「冗談だって。同窓会の案内送りたいって言って他の先生に教えてもらった」
「チッ……まあいい、そこに座れ」
「はーい……」

これから説教されるというのが分かっていないのか、ヘラヘラと締まりのない面構えの坂田を
居間の座布団に座らせて、俺は台所へ向かおうとしたら手首を掴まれた。

「お茶なんていいから、隣に座ってよ」
「……俺がメシ食う仕度するんだよ。離せっ」
「あっ……」

腕を振って外し、今度こそ台所へ向かう。やかんを火にかけ緑茶……いや、コーヒーにしよう。

俺はコーヒー二つを持ち、マヨネーズをポケットに入れて居間へ戻った。
あのふざけた態度の坂田に出してやるというのは不本意だが、こんなに遅くまで待っていたの
だからこのくらいは……まあ、かなり濃いめに入れてやったがな。

「ほらよ」
「ども」

坂田の前にカップを一つ置き、俺はもう一つのカップを持って向かいに座った。
買ってきた弁当(牛丼だ)の蓋を開け、マヨネーズを万遍なく回しかける。

「……相変わらずマヨラーなんだね」
「ああ」
「あのさ、先生……」
「ん?」

牛丼をかきこみつつ坂田を見れば、遠慮がちに「ミルクと砂糖……」と言う。

「ねえよ」
「え゛……」
「大人になったらブラックコーヒー一気飲みするんだろ?」
「へ?」
「そう言ってたじゃねーか。……忘れたか?」
「……あったね、そんなこと」

コーヒーを一口含んだ瞬間、坂田の眉間に皺が寄る。これで、ふざけた態度に対する苛立ちは
幾分薄れた気がする。

「つーか先生、もしかしてその頃から?」
「何が?」
「いやでも流石にそれは引くな……。小学生相手にとか有り得ないだろ」
「だから何が?」
「ハッ!まさか先生……ショタコン?」
「あぁ!?」

俺の質問に一切答えないばかりか名誉毀損も甚だしいような疑惑まで飛び出し、俺は持っていた
牛丼のパックを割り箸ごとテーブルに叩き付けた。

「坂田てめぇ……」
「あ、違った?」
「違うに決まってんだろ!」
「ごめんごめん……。随分と些細なやりとりまで覚えてくれてたから、もしかして昔から
俺のこと好きだったのかなぁとか、でもそうだったらヤバイよなぁとか……」
「だから違うって言ってんだろ!」
「うん、ごめんね。やっぱり、カッコよく成長した俺にキュンときちゃった系だよな?」
「きてねーし」
「またまたァ……先生が熱〜い視線を送ってくるもんだから、俺、実習に集中できなくて
大変だったんだから」
「ンなもん送ってねーよ!自意識過剰も大概にしろ!」

ったくコイツは本当に……デカくなったのは図体だけで中身はガキのままじゃねーか。
俺が説教してるというのに坂田はヘラヘラ笑いながら隣に移動してくる。

「自覚ない?だとしたら先生、危機管理甘すぎ」
「あ?俺の何処が……っ!?」

坂田は俺にぴたりと身を寄せて左腕で腰を抱き、右手を俺の右手に確りと重ね合わせた。

「自分のこと好きだって言った男をウチに入れたらさァ……トーゼンこういうことになるだろ?」
「離っ……あ?」

不本意ながら貞操の危機らしきものを感じてしまった瞬間、坂田の体がすっと離れた。

「まあ俺は本気で先生のこと好きだから、力ずくなんてしねェけど」
「てめっ……」

からかいやがったのかコノヤロー……

「でもさ、そろそろ気付いた?」
「あ?お前がムカつく野郎になっちまったってことか?」

いくら元教え子とはいえ、ここまでふざけた態度を取られちゃ黙ってられねェ。

「酷っ!照れ隠しにしてもそれは……」
「照れてねェ。本心だ」
「そんなぁ……。俺のこと好きでしょ?」
「教え子としては、な」
「それだけじゃないくせに〜」
「家に入れたくらいで勘違いするな」

そもそもコイツが勝手に押しかけて来たんじゃねーか……

「違うって。もっと前から俺、いけるって確信してたし」
「あ?」
「だって先生、拒否らなかったから」
「……いつのことだ?」
「夢を叶えてみせるって宣言した時。全くその気がないならその時点で断るはずだろ?」
「…………」

言われてみれば、そう思われても仕方のないことかもしれないがあの時は……

「ビックリして何も言えなかったんだよ」
「ふーん……じゃあ俺のこと、何とも思ってないんだ?」
「……すまない」

教え子を悲しませるというのは非常に心苦しいが、だからといって坂田と付き合う気には……
坂田が無言で立ち上がる。帰りのタクシー代くらいは出してやろうかと考えていたら、坂田は
帰るどころか俺のすぐ後ろに座った。

「おっおい……」

俺の体は坂田の両脚に挟まれ、ぐるりと腕が巻き付けられる。

「本当に俺のこと、何とも思ってない?」
「あ、ああ……すまない」
「本当に?」
「ああ……」
「本当かなぁ……」
「おい坂田……」

失恋を認めたくない気持ちは分かるが、こればかりは仕方がないだろ……縁がなかったのだと
諦めてくれ。

「なあ先生……」
「何だ?」
「俺のこと好きじゃないなら、何で今、大人しく抱き付かせてんの?」
「お前が勝手に抱き付いてきたんだろ……」
「何で抵抗しないの?」
「…………」
「これで、勘違いするなって方が無理じゃない?」
「…………」

坂田の言い分は尤もだと思う。なのに、ここまで言われても俺は動く気になれないでいる。
実習中の坂田が気になっていたのも確かだ。アイツが言うような「熱い視線」ではないものの
かなりの頻度で見ていたと今になって気付く。何事もなく実習を終えて去っていく坂田の後姿を
見送った時に感じたのは寂しさではなかったか……

「……先生?」

話さなくなった俺を後ろから呼ぶ声は酷く儚げで、考えるより先に俺は坂田の手に自分の手を
重ねていた。

「せん、せ……」
「…………」
「あ、あの……」

後ろで狼狽えているのが見えなくても分かる。さっきまでの自信はどうした。
大人になったかと思えばガキのままで、厚かましいようで押しが弱く、無碍には突き放せない、
離したくないそんな存在。
その感情は教師としての性分ゆえのものなのか、もっと別のところから来たものなのか……

「分かんねェよ」
「先生?」
「まだ、分かんねェよ。お前のことを、そういう風に考えたことがなかったからな」
「……でも、考える余地はありそう?」
「多分……」

この時点でほぼ答えは出ているようなものだ。おそらく坂田もそれに気付いているらしく、
声に力が戻ってきた。

「じゃあ……暫くしたら、返事もらえる?」
「ああ」
「因みに、いつくらいに分かりそう?」
「……半年後?」
「えっ……」

あと半年で坂田は大学を卒業する。
ほぼ答えは出てるにしても、卒業を待ちたいのは教育者としての意地みたいなもんだ。

「もうちょっと早くならない?」
「……五ヶ月後」
「大して変わんねェよ!……五日後にしねぇ?」
「五ヶ月後」
「じゃあ来月!俺の誕生日が来てからでどう?」
「五ヶ月後」
「……もしかして、俺がまだ学生だからダメとか?」
「五ヶ月後でもまだ学生だ」
「そうだけど……」
「まあ、その頃には卒論も終わって卒業式を待つだけになるだろ」
「……それまでは『先生』するつもり?」
「そうだな」

今のままでも、坂田が小学生だった頃に比べれば大分差が縮まったように思う。
年の差は変わらないのに不思議なもんだ。けれどこの際、もう少し差を縮めてからでもいいだろ。

「ハァ〜、しゃーねェな……元々先生が目標だったし、それまで頑張るか……」
「ああ、頑張れよ」

きっと坂田は夢を叶えるために努力を続けるだろう。だったら俺も協力してやろうじゃねーか。
五ヶ月後の二月……十四日は空けとけよ?テメーで言い出したんだからな。

十年前の坂田の姿が思い浮かぶ。


 『土方先生は給料3ヶ月分の指輪と特大チョコレートをくれて――』

(12.07.05)


大人になれば年の差なんてあまり気にならなくなるなぁという話でした。学園物なのに二人以外でちゃんと登場したのがハタ校長だけという(笑)

ハタ皇子(校長だけど)書いたのが多分初めてです。この後の二人についてはそのうち……きっと忘れた頃に書くと思います。CPは、銀土始まりのリバの予定。

何はともあれ、十年越しの坂田くんの思いは無事に成就しそうな予感です^^ ここまでお読みくださりありがとうございました。

 

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