<三>


勉強会開始の時刻、午前十時三十分。腕時計と壁掛け時計と電話の時報で確かめて、銀時は自宅の
玄関に鍵を掛けた。そこからゆっくり五歩進めば土方家。深呼吸一つして銀時は呼び鈴を押した。

「よう」
「おっお邪魔します」

思いがけずトシに出迎えられて上擦る声。休日のトシは普段と同じセンター分けの前髪だが、
学校にいる時のようにサイドを整髪料で固めてはいない。幾分カジュアルな姿に胸はときめいた。
一方その後ろで薄笑いを浮かべる同級生。腹が立ったものの、好きな人の前で弟を睨み付ける
わけにもいかず、余所行きの笑顔を張り付けておく。

「銀時もスーパーに用があるんだとよ」
「へっ?」

銀時には身に覚えのないことを言い、感謝しろとばかりのしたり顔。言葉だけは兄に向けられて
いて、受け取ったトシは銀時へ投げ返した。

「お前もスーパー行くのか?」
「あ、はい」

お前「も」――十四郎の思惑を瞬時に悟り、銀時は肯定の返事をした。きっとトシさんはこれから
買い物に行くのだ。昼食の支度かもしれない。だからトシさんは玄関にいて出迎えてもくれたのか。

「今行くからついでに買って来てやるよ」
「いやっ、自分で選びたいので一緒に行ってもいいですか」
「ああ」
「教科書は置いてけよ。重いだろ?」
「あ、どうも」

言葉の裏に最大級の感謝を込め、十四郎へ勉強道具一式の入った肩掛け鞄を手渡して、銀時は
財布一つを手に憧れの人と土方家を後にした。梅雨の季節、今日は曇り空だが急いでセットした
髪が湿気で膨らみやしないかと心配しながら。


「何を買うんだ?」
「えっと……甘い物」
「変わらねぇな」

すっと目を細められて手の平が銀髪の上でぽんぽんと跳ねる。変わらないのはどっちだ――トシの
態度は昔のまま。学校では「先生」と「生徒」と各々の役割に則り比較的畏まった姿勢を見せては
いるけれど、それがなければ昔のまま。幼子を慈しみあやすような仕種のまま。

「銀時、背ェいくつになった?」
「……百七十五」

正確には百七十三センチだが切りよくサバを読んでみる。疑うことなくトシは「大きくなったな」と
しみじみ呟いた。まるで子の成長を喜ぶ親の瞳。銀時はきつく拳を握っていた。

「もうすぐトシさんに追い付くからな」
「追い越されちまうかもな。お前にも、十四郎にも」
「…………」

銀時にとって面白くないことがもう一つ。このように十四郎と同列に扱われることである。トシに
全く悪気はなく、寧ろ本当の弟のように可愛がってくれているのだと分かっているけれど、弟では
恋愛対象になり得ない。
同時にスーパーの自動ドアを潜り、銀時の押すカートにトシが食材を入れていく。どの野菜が
新鮮かと二人して目を光らせ、どのマヨネーズが新鮮かと吟味するトシにどれも同じだと銀時が
ツッコミ、売り場中のイチゴ牛乳の賞味期限をチェックする銀時の横からトシが一番手前のものを
取ってレジへ進んだ。

銀時にとってはデートでも、トシから見たら弟のお守りの延長でしかないのかもしれない。自分で
払うと言ったのに奢られたイチゴ牛乳入りの買物袋を手に、それでも明るく振る舞って、銀時は
来た道を引き返していった。



「「ただいま」」
「おかえり」

家に戻ると十四郎はダイニングテーブルに問題集を広げていた。自分の部屋で勉強する方が捗るの
だが、それではまず兄と顔を合わせられない。だから勉強会の場所は決まってリビングだった。
カウンターキッチンを背にした十四郎の向かいの席に銀時の鞄。そこに座ればキッチンのトシが
見えるという寸法だ。

「荷物持ち、ありがとな」
「あっ、いいえ。ありがとうございます」

銀時が買うはずだったイチゴ牛乳。グラスに注いで出してくれた。カウンターの奥へ入ったトシの
姿は見えないけれど、初めにすることは分かっている。ぱちっと音がして換気扇が回りだした。
まずは一服。
吸い込みきれぬ薫りが仄かに勉強会場まで漂ってくる。銀八の煙草はただ煙たいだけだが
トシさんのは違う。ちょっぴり危険な大人の匂いは俺のハートに消えない火を点けてくれた。

「十四郎」

ふと気になって銀時は小声で十四郎を呼ぶ。手を止め顔を上げ、無言で「何だ」と訴えていた。
ちらりとキッチンを確認し、銀時はノートの端に、

――トシさんと銀八のタバコの違い分かる?

と書く。黙って頷く十四郎。にたりと笑って銀時はまたノートに走り書きをした。

――どっちがイイにおい?

目を細めた十四郎は、分かりきったことを聞くなとでも言いたげな様子。

――どっち?

素知らぬふりを続けて聞き返せば、軽く舌打ちが聞こえてそれから、十四郎は銀時の書いた
「銀八」の文字に丸を付けた。予想通りの答えに銀時は口元を緩ませて「トシ」の字に二重丸を
付ける。すると十四郎は銀八の丸を花丸にしていた。
煙草の匂いが薄れ、包丁の音の響くリビングで。

*  *  *  *  *

「できたぞー」

正午過ぎ、キッチンの中から声が掛かった。銀時は直ぐに立ち上がりテキストを閉じる。

「じゃあ午後またお邪魔します」
「何言ってんだ。お前の分も作ったから食っていけ」
「えー……」

実際のところこれが目当てではあるのだが、図々しいと思われたくはない。「遠慮」する銀時の
前にトシはオムライスの皿を置いた。チキンライスを包む薄焼き卵にはケチャップで「ぎんとき」と
書かれている。瞳を煌めかせた銀時にトシが畳み掛けた。

「銀八にも、ウチで食うって電話しといたから大丈夫だぞ」

家族の了解も得ていると伝えたつもりであるけれど、銀時は別のことに驚く。

「銀八、家にいるんですか?」
「ああ」
「もう帰って来てたのか……」

十四郎に悪いことをしてしまった。午後は会場を移さなくては――今後の予定を練り直しつつ
勉強道具を全て片付け、銀時はトシに続いてキッチンへ足を踏み入れた。

「手伝います」
「おー、ありがと」

トシと書かれたオムライスの皿を恭しく両手で持ち、銀時は細心の注意を払ってダイニング
テーブルへ向かう。コンソメスープをよそいながら、未だ動かぬ実弟へ兄の声が飛んだ。

「十四郎、お前も手伝え」
「んー……」

いい加減な返事をして十四郎は自分の解答と模範解答を見比べている。兄に「とうしろう」の
オムライスを雑に出されても何食わぬ顔で勉強を続けていた。
彼にとってはこれが日常。母と一回り歳の離れた兄――家族の中で一人だけ「子ども」の十四郎。
いつでも大人達が自分に合わせてくれたから非常にマイペースに育っているのだ。
甘やかし過ぎたと息を吐き、十四郎の隣に腰を下ろすトシであった。

「先に食ってていいぞ」
「待ってます」
「銀時は優しいな。それによく気が付くし素直だし……」
「え、そんなァ」
「弟ってのはこうじゃないとな」
「おとうと……」

買い物の時のもやもやが一気に銀時を支配する。空気の変化を読み、十四郎の手が止まったものの
トシはそれに気付いていない。

「十四郎も昔は『にいたんにいたん』って可愛かったんだけどなァ……少しは銀時を見習え」
「わっ分かったよ。もう片付けるから」
「可愛い弟にはプリンもあるからな」
「…………」

自分だけに向けられた笑顔。温かなそれは残酷なまでに銀時の思いを打ち砕いた。

「弟じゃねぇよ……」

誰の台詞だか理解できない程に普段の銀時とは掛け離れた低く暗い声。トシも漸く異変を悟る。

「銀時?」
「俺はっ――」

ぎろりとトシを見据えた銀時の瞳には、表面張力で何とかその場に留まる程の涙を湛えていた。
力いっぱいテーブルを叩き、イスを倒した拍子に表面張力は決壊する。

「アンタの弟じゃねェェェ!」
「わっ分かってる。お前みたいな弟だったらいいなと……」
「弟扱いすんな!俺は」
「銀時っ!」

止めに入った十四郎の声も届かなかった。

「トシさんが好きなんだっ!!」
「…………」
「弟じゃねぇよバカヤロォォォォォ……」
「あ……」

泣きながら飛び出していく銀時。追いかけようとした十四郎の腕をトシが掴んで制止した。

「離せっ!」
「知ってたのか?」
「……知ってたよ」

責めているとも取れる兄の口調に怯みそうになりつつも、十四郎は必死に虚勢を張る。夢破れた
友人のため、そして何れ同じ目に遭う未来の己のため。

「男で、十二歳も下で、教え子で……無理なのは分かってる。でもアイツは本気なんだ!ガキの
頃からずっと兄さんが好きだったんだ!」
「…………」
「受け入れろとは言わねぇ。ただ、『可愛い弟』なら泣かせたままにするなよな」
「十四郎……」

兄の手を振り払い、銀時の鞄を手に十四郎は隣の家へ駆けていった。しとしとと降り始めた雨に
濡れる暇なく到着して、そのまま我が家のごとく扉を開ける。

「銀時っ!」
「土方くん?」
「あ……すみません!」

銀八がいることをすっかり失念していた。慌てて頭を下げ、脱ぎかけた靴を履き直す律儀な
十四郎に笑みを零しつつ、「どうぞお上がり下さい」などと殊更丁寧に迎え入れる。

「銀時を追い掛けて来てくれたんだろ?ケンカ?」
「そういうわけではないんですけど……」
「ああいいよ。理由は聞かない。銀時は部屋にいるから、よろしくな」
「はい。すみません」

再度頭を下げて十四郎は階段を上がっていった。途中、銀時の叫び声が響いたので可及的速やかに。

「あああああ〜……」
「銀時、入るぞ」

ノックと同時にノブを回せば声が止む。静かになった部屋の中にそっと踏み込み、扉を閉めた。
ベッドに突っ伏していた銀時がのそりと起き上がる。その髪は乱れ、瞳は未だ潤んでいた。

「あまり、気にすんなよ。兄さんの感覚はおかしいから。あのオムライス見ただろ?」
「お子様用だったな」
「高校生と幼稚園児の区別もできてねぇんだよ」
「ハハッ。……けど覚悟してたとはいえフラれるのはキツイな」
「兄さんよりいいヤツなんてごまんといるぜ」
「諦めねーからな」

きっぱりと言い切った銀時はもういつもの前向きな表情に戻っている。窓の外では徐々に雨足が
強まっていた。

「そう簡単にお付き合いできるなんて思ってねぇし。でもこれで弟とは違うって分かったはずだ」
「お前、強いな」
「失恋は人を成長させるんだぜ。あ、お前も今から銀八に告白して来いよ」
「ふざけんな!」
「早く大人になりてぇだろ?だったら……」

ドアをノックされて二人は押し黙る。この家にいるのは銀八のみ。まさか話を聞かれたのか……

「銀時、入っていいか?」
「ど、どうぞ」
「あ……」

銀八の後ろに兄の姿を見留め、十四郎は完全に硬直した。恐る恐る銀時が尋ねる。

「俺達の話、聞いてた?」
「盗み聞きなんかするわけねぇだろ」

一先ず最悪の事態は避けられた。どうせ俺達の悪口でも言っていたのだろうと銀八はそれ以上
追求せずにこちらの用件を述べる。

「トシさんがお前に話があるんだと」
「あ、そう」
「泣いて帰って来た原因はトシさんなのか?」
「いや……」

幼馴染みとの諍いならともかく、その兄でしかも教師が相手となれば話は別。滅多に見せない
厳しい面持ちの兄に銀時は急いで言い訳を捻り出す。

「俺が悪いんだ。勉強で分かんない所があって、トシさんは教えてくれたんだけど難しくて……
自分の馬鹿さ加減に腹が立って八つ当たりしちまった。ごめんトシさん。次からは投げ出さないで
頑張るから、また勉強教えて下さい」

弟の嘘を銀八は見抜いていた。しかし、無理矢理に笑顔を作ってまでトシを庇う銀時を問い詰める
ことは憚られる。一方トシはそんな銀時のいじらしさに、これまでとは明らかに異なる愛しさを
感じ始めていた。

それは、運命のスイッチが入る瞬間だった。

(14.06.22)


銀時くんが報われそうになったとこ ろでいったん終わります。続きは数日中に……書けるといいな^^;

追記:続きはこちら