後編
自宅へと帰る途中、ふいに定春が立ち止まった。銀時の方を見てから斜め前に向かってひと吠え。
揺れる尻尾が銀時の脚にふぁさふぁさ当たる。
「なんだよ……可愛いメス犬でもいたか?」
「わうっ!」
「ん?おいおいマジですか……」
定春の視線の先、路地の入口に黒い靴が見えた。どうやら人が倒れているらしい――銀時はすぐに
そこへ駆け寄った。
「っ……!」
倒れていたのは土方であった。そこまで分かって定春が知らせたか否かは確かめようもないが、
ともかく助けなくてはならない。これはつい先程知った感情とは何の関係もなく、人として
当然のことだと自身に言い聞かせながら。
「おーい、ひじかたー」
倒れた拍子に手放したらしい火の点る煙草を踏み消しつつ、間延びした声で土方を呼ぶ。
制服姿だから、何者かに襲撃されたのかと最悪の事態が脳裏を過ぎったものの、周囲の状況から
するに単なる事故のようだ。呼吸で膨らむ胸が俯せた背中を押し上げて、生存を伝えている。
路地を形成する家の窓から不安げにこちらを見ている幼女が一人。円らな瞳に大丈夫だと告げて
足元に散乱する土を片付けて見せてやれば、彼女は笑顔で窓を閉め、部屋の奥へと戻った。
「…………」
事件性はないとはいえ気を失っているのも事実で、僅かな逡巡の後に土方の脇へ腰を下ろし、
その体を仰向きに返して膝に抱えた。
「コイツ……」
気絶しているかに見えた土方は眠っているだけであった。
倒れた際に打ったであろう額からは微かに血が滲んでいるが、大した怪我ではない。
それよりも、目の下の隈と、己に比べて細過ぎる体が問題だろう。自らの意志に反してでも体が
横になった瞬間に眠りに落ちてしまうような、こうして抱えたくらいでは起きない程の深い眠りに
落ちてしまうような、そんな疲れ果てた状態でふらふらと外へ出ていたのだ。
右腕で土方の体を支え、左手でぺちぺちと頬を叩く。
「ひじかたくーん」
しかし土方は目覚めない。
どんだけ爆睡してんだコイツ……眠り姫ですか。王子様のキッスで起きるんですか。
ああ、コイツを「姫」なんぞと形容してしまう自分に寒気がする――銀時は制服の内ポケットの
マヨネーズに目を留める。
「まさかこれがメシじゃねェだろーな……」
疲れた時には甘いものだろうと思いつつ、マヨネーズボトルを取り、口でキャップを開けて
土方の鼻先へ。
「大好きなマヨネーズだぞ〜、起きろ〜」
「ん……」
マヨネーズ作戦は功を奏したようで土方の眉間に皺が寄る。睡眠欲と食欲の狭間で揺れていると
いったところか……銀時はボトルを握って、ほんの少し開いている唇の隙間にマヨネーズを一滴
垂らしてみた。
「んむっ……」
「はあ!?」
銀時は度肝を抜かれる。未だ眠ったままの土方が、ボトルの口を咥えてちゅうちゅうと吸い
始めたから。デカ過ぎる赤子にミルクを与えているような体勢だ。
だらりと重力に従っていた土方の手が、ボトルを持つ銀時の手に添えられる。
土方が俺の手を――
「イヤイヤイヤイヤイヤ!」
こんなことでときめく己にツッコミを入れて、銀時はマヨネーズを無理矢理引き剥がした。
ちゅぽっと音を立てて土方の口からボトルが外れる。
「起きろォォォォォォ!!」
パシパシと頬を平手で打ちながら叫ぶ銀時。ついでに、さっきまでの赤ちゃんプレイもどきを
ちょっとだけ楽しいと感じてしまった事実を消去したくて、声を限りに叫んだ。
「るせーな……」
唸りながら銀時の手を払い除け、遂に目を開いた土方。
「おはよ」
「…………」
上から覗き込んでくる銀時を睨みつけつつ記憶を辿る――何だこの状況は。どうして万事屋が
ここにいる?確か、この辺りは路上喫煙禁止区域だからと路地に入って、それで……
「――っ!」
「お……」
カッと目を見開き飛び起きた土方は、突然に姿勢を変えたせいでまたすぐに頭を抱えて蹲った。
「……立ちくらみか?いきなり起き上がるからそういうことに……」
「頭を打ったようだ……何も思い出せん」
「カッコつけてるとこ悪いけどマジで打ってるからね?この割れた植木鉢が何よりの証拠だから」
「チッ……」
敢えて見ないようにしていたピンクのチューリップの鉢植えを指摘され、銀時は全て悟っているの
だと判る。
隠れて煙草を吸おうと路地に入り、表通りとの明度の差に疲れた目がついていけず、足元の
植木鉢に躓いて倒れた。そこから先の記憶はない……が、銀時にシバかれて目を開けた時、
あの直前は確かに眠っていた。
銀時は気付いているのだ。己が愛らしい鉢で転んだ挙げ句に眠りこけていたことを……
「ここん家の子が心配そうに見てたぞ……チューリップのこと」
「そんなに大事なら、もっと日当たりのいい場所に置いとけよ……」
失態を演じた自覚はあるので、悪態を吐く口調も弱々しい。
こういう危ういところが庇護欲を掻き立てられるのかと、どこか達観している銀時がいた。
「表に置くと、誰かがぶつかって危ないと思ったんじゃね?」
「チッ……」
今日の銀時はいつもと違うと土方は思った。
いつもの銀時がこんなドジを目撃すれば、執拗にからかって土方を逆ギレさせているところだ。
話し方がそこまで嫌味でないから、土方も「テメーと違って忙しく働いてんだ」などと言い返す
タイミングがなくて居た堪れない気分になる。
「お前がどうなろうとお前の自由かもしんねーけどよ……」
「ンだよ……」
「体調管理はしといて損はないんじゃねーの?」
「……分かってる」
「まだ忙しいのか?」
「いや……今日は、非番で……」
休みなのに働いていたのかと呆れられても、悪かったな、と言うのが精一杯。虚勢を張る空気にも
なってくれない。この空気を作っているのは銀時なのだということまでは理解しても、打開策が
思い付かない。
近藤さんに働きすぎだと窘められる時と似ている。部下がサボるせいだとか上司がストーキングで
不在なのがいけないとか、言い訳は色々あるのに言えない、言いたくない、素直にごめんなさいと
謝りたくなってしまう空気。
だから、
「なら休んでけよ。すぐそこに知り合いのやってる宿があるんだ」
などと言われて、即座に頷いてしまった。
銀時は土方の腕を引き上げて立たせ、定春に家へ帰っているよう告げて路地の奥へと進んでいく。
冷静に考えれば、そのような場所にある宿などいかがわしい所に決まっているのだけれど、
この時の土方は深く考えずに銀時に付いていった。
* * * * *
「あーあー、埃まみれで部屋に入るな。風呂場に行け、風呂場」
「……おう」
連れてこられたのは案の定ラブホテル。
土方のジャケットは玄関で脱がせて土埃を払いつつ、シャワーを浴びるよう指示を出す。
外で転んだのだから当然かとこれまた素直に従った。
洗面台に映る己の顔は、額と鼻の頭が擦りむけており、頬が赤い。そういえば目を覚まさせようと
した銀時に叩かれたような……馬鹿力めと心の中だけで文句を言って、土方は浴室へ入った。
シャワーの湯を頭からかぶると、足元へ茶色く濁って流れていく。擦りむいた顔と手の平に
染みるため、湯温を低くして体を洗った。
シャワーを終えた後も、ちゃんと髪を乾かせだの蕎麦の出前をとるだの(ちゃっかり自分の餡蜜も
注文していた)部屋は寒くないかだのと甲斐甲斐しく銀時は土方の世話を焼いた。余計なことをと
思わないでもなかったが、蓄積された疲労と眠気で考えるのも億劫になり、やがて土方は銀時の
されるがままになっていった。
「はい、食ったら寝ろ。チェックアウトの時間になったら起こしてやるから」
「……ああ」
それまでお前はどうするのだと聞くのも面倒で、言われたとおりベッドに入ると土方は、
意識を手放すように眠りに就いた。
それから数分後、
「ひじかたくーん……」
寝入った土方に銀時は小声で呼び掛ける。熟睡しているかの確認であるが返事はない。
今度は枕元に立って、やや大きな――けれど普段話すよりは小さな――声で呼んでみたが
やはり返事はない。屍ではないけれど返事はない。
銀時は掛け布団に手を掛け、その端をそっと持ち上げた。
「…………」
土方はベッドの中央よりやや左側で寝ており、銀時がいるのは右側。
僅かに布団を捲っただけでは土方の腕すら見えないというのに、既に性犯罪者の気分だった。
ちょっと隣で寝かせてもらうだけだから。銀さんも土方くん程じゃないけどいっぱい働いて
疲れてるからね。二人用のベッドなんだからいいよね。むしろ二人で使わないと勿体ないよね。
枕二つあるしね。土方くん一つしか使ってないしね。もう一個は銀さんが使ってもいいよね――
また少し掛け布団を持ち上げれば、土方の着ている浴衣の右袖が微かに見えた。
それだけで銀時はひゅっと息を飲む。
大丈夫大丈夫、何もしないから。指一本……くらいは触っちゃうかもしれないけど仕方ないよね。
敢えて触ろうなんて思ってないけど、一緒のベッドで寝たらちょっとくらいは触っちゃうよね。
それに、土方くんが寝相悪くてこっちに来るかもしれないしね。そういえば銀さんも、寝相あまり
良くなかったかもしれないな。
ギシッ――安物のスプリングは銀時が片足を掛けただけで大きく軋んだ。
土方が目覚めやしないかと暫くその状態で呼吸までも止めてみたものの、取り越し苦労に終わる。
気力も体力も限界まで酷使した土方は、ちょっとやそっとでは起きそうもなかった。
いやまあ、別に起きたって何の問題もないんだけどね。怒られるようなことしてないしね――
誰にも聞こえぬ言い訳を続けつつ、遂に銀時は土方の隣へ横になった。
(ふおぉぉぉぉぉぉっ!!)
声にならない叫びを上げてベッドの中で銀時は硬直する。有り得ない程に心臓が高速稼働し、
逆に止まりそうだ。どうしたんだ俺!さっきまでの勢いはどうした俺!テキトーに理由付けして
あわよくばチュッチュアハンなご休憩に持ち込む気だったじゃないか俺!なのに、なのに……
(全っっっっ然、ヤれる気しねェェェェェェェ!!)
その時、「偶然にも」土方が銀時側へ寝返りを打った。土方の腕が銀時の胸の上に乗っかり、
顔はこちらを向いてより近くに。銀時の体は考えるよりも前に動いていた。
逃げる方向に。
転がり落ちるようにベッドから下りて元いたソファまで這いずり、息も絶え絶えにそこへ座る。
足元側から見るベッドは己が乱した掛け布団しか見えない。まさかこの歳になって新たな自分と
出会う羽目になるなどとは思いもしなかった。恋愛なんてベッドで始まりベッドで終わる……
と思っているはずだった。なのに今日の俺は何だ!始めることすらできなかったではないか!
これはマズイ!とりあえず、外の空気を吸って一旦落ち着こう!……逃げるわけじゃないからね?
「腰抜け野郎……」
ベッドの中から呟かれた声。外の空気を吸いに出てしまった銀時へは届かなかった。
恋の花が実を結ぶのは、土方が次に目を覚ましてから。
(13.03.27)
終わります。続きません(多分)。当初の予定では(土方さんがつまずいた)花が切欠でくっつく二人を書こうとしていたの ですが、ヘタレ銀さんと天然土方さんの話に……
爛れた恋愛マスターの銀さんは好きな人ができたら先ずヤってみる感じなのですが、本当に好きになった人を前にしたらヘタレました^^
奔放に、けれど深くは人と関わらずにいた銀さんは、土方さんを通して本当の恋愛感情を知ったらいいなという管理人の妄想。
土方さんにはミツバさんがいるからなァ……。でも、お付き合いすることの喜びなんかは銀さんを通じて知るのかな。これも妄想ですけど。
ここまでお読み下さりありがとうございました。